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『思無邪』島津斉彬と久光

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「思無邪」島津斉彬筆 

 


斉彬の座右の銘として有名な言葉である。


「思無邪」とは「思いよこしまなし」と読み、
心情をありのままに表し、偽り飾ることがない、という意味である。
論語詩経に見られる言葉だそうだ。


2001年韓国を訪問した小泉純一郎首相(当時)が、国立墓地と、西大門独立公園の歴史展示館を訪問。
記帳の際、「思無邪」と書いたことで、一躍有名になった言葉でもある。

 


外圧に揺れる国難に真正面から向き合おうとした斉彬公の心境を表している。


今年4月に大阪歴史博物館で開催された「天璋院篤姫展」で、直筆の書を拝見できたのは感激であった。
実物はかなり大きな書で、斉彬公の強い決意を感じさせ、観るものを圧倒する。

 


また書体も伸びやかで力強く、また構図もすばらしい名書ではないか!

 


私は、博物館などで、歴史上の有名無名な人物の書や絵画を見るのが、この上なく好きである。


'''時に絵や直筆の手紙や文字が、その人のすべてを物語るときがあるからだ'''

 


この「天璋院篤姫展」では、数多の島津斉彬公直筆の手紙を拝見することができた。


斉彬公はかなりの筆まめであったようだ。
そしてその内容も、まさに「「思無邪」そのもの。

 


邪推も邪念も無く、陰謀や隠し事もなく、真っ正直でストレートに考えを書いていた。
そしてその内容の殆どが、外圧や国難を憂い、そのために薩摩はどうすべきかを
明確に書き示している。

 


数多い斉彬公の書状のなかで特に感激したのが、

 


'''「島津久光宛 島津斉彬書状」''' 嘉永4年(1851) 5月29日付

 

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江戸の斉彬公から国許の島津忠教(のちの久光)への書状である。
上京した篤姫が、江戸薩摩藩邸にて篤姫の将軍家の輿入れの沙汰が下るのを待っていた間に
にしたためられた手紙である。


内容を抜粋してみよう。

 


『異船之様子函館下田共・・・最早交易も開ケ候哉聞得申候、先両三年戦争之掛念は有間敷
異人益我侭之振舞可有之掛念計候、琉球も是迄日本服従内々候得共、此節之場合 夫相済間敷との事・・』

 


ペリー再来に揺れる日本は戦争を避けるために開国は必至との見解を述べている


嘉永4年当時、そこまで踏み込んでの発言は大胆でかつ的確である。
さすが、斉彬公。先見の明がある。


また、このような重大な内容を書状で書き送る久光への信頼の厚さをも物語っていて興味深い。

 


また篤姫の将軍家との婚姻について幕府からの正式な沙汰がないのは、
ペリーからの外圧や、京都御所炎上の問題で幕府ががたがたしているためだと説明している。

 

 


{{{:
三次郎母子案しん可申と存候間、内密御伝可給候、何分善悪相知兼申候}}}

 


同年2月に当主忠剛(篤姫の実父)を亡くしたばかりの今和泉家の母子に、
内密にこの件を知らせて安心させてほしいと依頼している。

 


篤姫やその家族への気遣いがあふれる書面であり、またこの兄弟が何でも相談できる間柄であったことが分かる書状でもある。

 

 


{{{:
一人下田之様子七里方勝手歩行いたし、品物も自由取替も有之よし、
此間、内々人遣候処、誰金銀と取替出来候見届ケ罷帰申候、其通故、琉地は猶更之事と存申候、
武備何分御手薄之様子御座候、委細は後日可申入候、恐々諌言 }}}


と、下田へ自ら赴き視察した内容を日記風に気軽にしたため、
久光へ琉球への武備の目配りをさりげなく依頼しているのも面白い。

 

 


久光への親しみと信頼あふれる書状は、この兄弟の関係が良好であったことを示す証拠であろう。


遠く江戸にて篤姫輿入れ等の幕府工作に忙殺される斉彬公にとって
薩摩藩、特に島津家の諸事の手助けとなる参謀的な役割を久光が負っていたとも想像できる。


つまり島津藩を2分し血で染めた「お由羅騒動」が、その後の二人の関係には殆ど影響がなく
弟の罪を問うどころか、むしろ重用していたところに、斉彬公の大きな器ぶりが分かる。


安政5年7月、島津斉彬は志半ばに病で倒れ(毒殺の疑いもある)
急死する間際に自分の後継者として、島津久光の嫡子、茂久を指名した。

 


お由羅騒動」の影響がまだ残っている藩内で久光を後継者に指名するのは憚りがあったのであろう。


そして幼い茂久には後見が必要であり、自分の意思や志を一番理解してくれる身内として
久光に薩摩藩の舵取りを託したのである。

 


翌年(安政6年)実父島津斉興が亡くなった後、「国父」として藩の実権を掌握した久光は、
兄斉彬公の意思を継ぎ、文久2年(1862年)、公武合体運動推進のため兵を率いて上京する。
朝廷・幕府・雄藩を連合させ、外様であっても幕政の主導権を握ることこそが、
斉彬公の悲願であったからだ。

 


そして薩摩藩内においても斉彬公同様、下級武士をどんどん登用した。
その筆頭が大久保一蔵(のちの利通)。
彼ら中下級藩士から成る有志グループ「精忠組」は若手藩士の中心となった。
そしてそのまとめ役が、後に家老となる小松帯刀である。


{{{
しかし、「精忠組」のリーダーであった西郷吉之助(隆盛)と久光は、そりが合わず、
最期まで犬猿の仲であったのが、明治維新になっても尾を引く結果となる。}}}

 


島津久光は斉彬の後継者として、見事に斉彬の意思を継いだ。


それは間違いない。


しかし、西郷との個人的な人間関係のトラブルが、久光の印象を暗くしているような気がする。


西郷隆盛=ヒーロー、久光=ヒール とでもいおうか・・・

 


事実西郷は藩命で2度も島流しとなる。


一度目は安政の大獄で京都を追われた月照との心中事件の後、
幕府からの詮索を逃れるための隠れ蓑的処置であったが、
(そのため西郷は亡くなったことになっており、菊池源吾という偽名で奄美大島へ流された)
2度目の沖永良部島遠島は完璧な罪人扱いであった。
当時の藩士にとって最も過酷な左遷であり、事実西郷は過酷な環境にあって死に掛けたのである。


明治維新最大の英傑を島流しに処し、抹殺しようとしたわけだ。
久光の評価が斉彬公のそれに遠く及ばない、暗く邪悪な印象を与えるのは、致し方あるまい。

 


それは久光の西郷への憎しみという'''「思有邪」'''が、政治に影響したからである。

 


その一方、斉彬公は、政治や人材登用をできるだけ公正に行い、
また一時敵対した異母弟とはいえ、罪を問わず弟への信頼をも揺るがすことも微塵もなかった。


まさに'''「思無邪」'''。

 


「三百諸侯並ぶものなし」と称えられ、あの西郷隆盛が死ぬまで尊敬し続けた
海のように大きな器をもった殿様であったのだ。


大河ドラマ篤姫」で高橋秀英樹さん演じる斉彬は、心広く、慈悲深く、また
日本の国難を憂い、幕政に参加してこの難局を乗り切りたいという、まっすぐな野望を持っていた。


とても実像に近いのではないか?


斉彬公筆の「思無邪」をみての実感である。

 


一方、久光に関しては今年の大河ドラマ篤姫」でも、斉彬公との関係も良好に演出されており
なかなかいい感じである。性格もいい。
これから、西郷との複雑な人間関係をどう描くのか、それも注目してみたいところである。

 

 

 


===== 島津斉彬 =====


文化6年~安政5年(1809-1858) 享年50歳
27代島津斉興の嫡男。母は斉興の正室鳥取藩主池田治道の娘・弥姫。
蘭癖と呼ばれた曽祖父島津重豪の影響を強く受けて育ち、海外の情報、文化に精通した
英邁で当代きっての進歩的な考えをもった人物であった。
実父斉興と側室お由羅の生んだ異母弟 島津忠教(のちの久光)と
島津77万石の跡目をめぐる内紛、いわゆる「お由羅騒動」を経て、嘉永4年(1851)藩主に就任する。

 


お由羅騒動」については⇒  
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/54366882.htmlお由羅騒動島津斉興vs斉彬公との確執 』
参照下さい。


写真@「天璋院篤姫展」カタログ


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大人気だった大河ドラマ天璋院篤姫』とコラボした『天璋院篤姫展』へ行った感想記です。


もう11年も前なんですね。


篤姫が嫁いだ堺雅人さん演じる将軍家定が
大好き💕で、家定の書画を目当てに行ったのですが、島津斉彬の迫力ある書や手紙に感銘を受け
時間を忘れて見入っていた事を思い出します。


大河ドラマで幕末が舞台になると
途端にアクセスが増え、
昨年の大河"西郷どん"の影響もあり
今でもほぼ毎日アクセスを集める
息の長〜い人気記事です。


集計すれば、多分TOP5にはランクインすると思います   11年間愛された幸せな記事です

 

 


https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/57502811.html

 

2008年7月31日午後10:51 Up