ゆーくんはどこ? はてなブログver

yahoo!ブログからお引越し予定⭐︎ 歴史、ドラマ、ピダム好き❣️

上杉謙信の出家騒動

f:id:tomotomo0014:20190601172842j:image

(春日山図)

 

弘治2年(1556年)6月、長尾景虎(後の上杉謙信)が、出家するため突然出奔した。
向かったのは高野山


'''なぜ高野山なのか?'''


この騒動の三年前、天文22年(1553)9月、景虎は上洛した時に高野山へ登っている。


真言宗の高僧、無量光院の住職「清胤」に会うためであった。


高野山は当時、女人禁制で、武装も固く禁じられていた。
そのため、景虎は黒漆の陣笠をかぶり、名刀備前国宗を戒杖に仕込み、
左腕に百八の数珠を巻いた姿で登山したといわれている。


このとき景虎 まだ23歳の青年であった。


彼は清胤和尚の教えにより、真言宗に入信して下山した。


しかも京都へ戻ったその足で紫野大徳寺に参禅。
前住職第九十一世徹岫宗九より、12月8日、三帰五戒と法号「宗心」を授けてもらう。
12月8日は「臘八」、釈迦が悟りをひらいた日とされている。


そのときの書状が残されている。


「越之後平氏景虎公、授衣鉢法号三帰五戒。曰宗心」


真言宗入信、三帰五戒と法号と、まだ青年であった長尾景虎が仏教に深く帰依していることが分かる。
精神世界への憧憬が強かったのであろう。
また、この書状から景虎が「平氏」であるとも見逃せない。


そんな「青白い頬」を持った青年武将からみれば、
実利や調略を重ねて他国へ侵略し、滅ぼした国の姫を側室にしてしまう武田晴信
極悪非道でしかなったろう。


景虎が隣国からの侵略の危険も顧みず、万難を排して京へ上洛した目的は
正義という刃で、隣国との戦を正当化するためでもあった。


将軍や天子からの命令なく、自分の欲望野望のためだけに隣国を侵略するなど
景虎にとっては許しがたい行為でしかなかったのだ。


念願かなって、京都において後奈良天皇に拝謁した景虎は、天盃と御剣を賜り
禁裏での拝観も許された上に、


「平景虎、任国ならび隣国に敵心をさしはさむ輩を治罰せよ。」という綸旨を賜った。


綸旨をもって、景虎は、何の迷いもなく、宿敵武田と対峙することとなったのである。

 


ところが、文24年(1555年)、満を持して望んだ甲越の第二次川中島合戦は、
両陣営が2百日以上も睨み合う、膠着状態に陥っていた。


結局今川氏の調停によって和議が整い、疲労困憊の状態でやっと越後へ帰国するなり、
景虎は自国内の土地争いに悩まされることとなる。

 

奥郡の中条藤資と黒川美氏の土地争いが起こっていたのである。
この内紛は、両者の背後にある重臣の大熊朝秀と本状実乃の代理戦争でもあったのだ。


景虎は裁断を下すこともせず、突然引退し、天室光育に遺書をのこして
弘治2年(1556年)6月、単身旅に出たのである。


天室光育は、景虎が7歳で出家した林泉寺の住職で、最も信頼していた人物であった。


景虎高野山で出家しようとしていたが、春日山城代で、姉(桃姫)の夫である長尾政景
直々に跡を追い、懸命に説得した。


「武門の身にありながら遁世されるのは、内外の患いに負けて逃れしと評判される。
 長尾家代々の武門を汚すことになる」


結局、義兄や、天室光育の言葉に従い、出家を断念して春日山城へと戻った。
景虎 27歳の決断であった。

 

景虎が戻ると、大熊朝秀が謀反を起こしていた。

 

大熊氏は上杉家が越後守護として入国して以来の家臣であり、公銭方を務めていた。
景虎の父、長尾為景が主家の上杉氏と対立したとき、大熊政秀(朝秀の父)は上杉方について戦った。
しかし、朝秀は父の死後上杉家を見限って長尾家へ寝返り、景虎の越後統一を成功させた。
いわゆる功労者でもあった。
しかし、今回の土地争いでは、日く頃公銭方として専横していた大熊氏への反感もあり
大方の地侍は、対立する本庄実乃側を支持していた。


越後で孤立した大熊朝秀へ、武田の調略が仕掛けられたのは当然であろう。
武田の情報網はそれほど優れていたのである。


しかし、軍神・長尾景虎にとって、大熊朝秀は惜しむべき功臣ではあったが
合戦の相手ではなかった。
越中口から侵入してきた大熊勢をあっという間に撃破したのである。


朝秀は甲斐へ逃亡して武田家の家臣となり晴信から重用された。
越後の内情に通じただけでなく、その後も何度も功名をあげたようだ。
「甲陽軍艦」にも朝秀の名前が記されている。


「大熊備前守  騎馬三十騎、足軽七十五人」
なかなかの出世である。

 


何はともあれ、この事件を機に長尾景虎は迷いを捨てたようだ。
両雄は確実な足どりで「川中島の死闘」へと踏み出していくのである。

 


なお、上杉謙信は女人禁制の高野山へ生涯で2度入山している。
このことが「謙信女性説」の最強の反論となっていることを付記しておく。


上杉謙信女性説』
https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/50699683.html

 

 

参照@「武田信玄津本陽先生著作

 


****************


2007年10月28日
@ゆーくんはどこ?
https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/52850236.html