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咸臨丸に乗った偉人達

 

 


幕末、多くの英雄が跋扈し、歴史は大きく転換した。


しかし、活躍したのは何も人間だけでなない。

 


250年にわたる鎖国で、井の中の蛙となった日本を、
開国、明治維新、そして国際社会へと日本を導く要因となった一隻の船がある。

 


=== 咸臨丸 ===

 


正直そう大きくもない軍艦だが、まるで天から選ばれた船であるかのように、
この船に乗船して人生や運命が変わった偉人、英雄が多くいる。


不思議な縁をもつ軍艦、咸臨丸の「乗船者名簿」をここで紹介したい。

 

 

 


咸臨丸は、幕府がオランダへ注文した蒸気船2隻のうちの一隻。


安政3年(1856)オランダ国カンテルク市で製造が始まり、翌年竣工。
日本へ回航され、安政4年8月5日に長崎へ到着した軍艦である。


船体の長さは 163フィート(約47m)
幅24フィート (約7.4m)
100馬力!!
蒸気螺旋仕掛3本マストの帆の一段砲装の三等艦である。
トン数は不明だが、アメリカの新聞には250トン、もしくは292トンの記述がある。

 


数奇な運命をたどるこの軍艦は、まず、長崎海軍伝習所練習艦となった。
当時の幕臣や旗本の俊才が選抜され、伝習所生徒となり、咸臨丸に乗船して航海術を学んだのである。


生徒として学んだのは


'''勝麟太郎(海舟)'''
'''榎本武揚'''
'''松本良順'''
'''松木弘安寺島宗則)'''

 


等々・・・豪華な顔ぶれである!


ちなみに長崎海軍伝習所の総監理は、'''永井 尚志'''。
新選組!』で佐藤B作さんが演じられていた「永井さん」(香取近藤口調)も
乗船者名簿の一人であったのだ。

 


そしてこの長崎海軍伝習所時代、咸臨丸には'''薩摩藩主 島津斉彬公'''も乗船したことがある


幕末きっての「開明派」、蘭癖とも揶揄された斉彬公は、
これからの日本には海軍の養成が不可欠と、長崎伝習所へは諸藩にあっては最も多い16人の藩士
入所させている。


安政5年3月15日と5月13日の2度にわたり、
斉彬公は長崎伝習所の生徒達とポンペ教授等を招待し、咸臨丸で彼らは鹿児島を訪問したのである


斉彬公は、咸臨丸の艦内を視察し、食堂で洋風の食事を楽しみ、ポンペ教授達、外国人に
雨のような質問を降り注いだという。


しかしポンペ達は、斉彬公が海外の書物からの知識で、蒸気機関の仕組みを完全に理解し
鹿児島の工場で蒸気機関車の試作品を作ろうとしていたことに驚愕し、


「日本を変えるのは薩摩藩だ」と語り合ったという。


咸臨丸の総督であった勝海舟もこのとき島津斉彬公と親密になった。
海舟と薩摩のつながりは、実はこのときから始まっていたのである。

 


 
安政6年(1859年)、咸臨丸に大きな運命の転機が訪れる。


この年、日米修好通商条約の批准書を交換するため、幕府はアメリカ軍艦ポーハタン号にて
遣米使節団をサンフランシスコへ送ることになった。


しかし太平洋横断という大航海である。悪天候など不慮の事故も想定された。


そのため、もう一隻、随行船を派遣することになり、咸臨丸に白羽の矢が立ったのであった。


実は、ポーハタン号の随行船は別の軍艦「観光丸」が決まっていた。
しかし出港直前に、同船者の'''ジョン・エム・ブルック大尉'''が観光丸の船体を点検し、
観光丸では太平洋横断は難しいと判断され、代船として「咸臨丸」が急遽決定されたのだ。


「観光丸」は「咸臨丸」より一回り大きい大型蒸気船であったが、船齢は10年もたち
機関に重大な欠陥が見つかったのである。


まさに「天運の船」といえる。


軍艦奉行 : '''木村善毅摂津守'''
艦長   : いわずと知れた '''勝麟太郎'''


乗組員には


教授方: 佐々倉桐太郎 (運転)
 〃 : 鈴藤勇次郎  (運転)
 〃 : 浜口与右衛門 (運転)
 〃 : 小野友五郎  (測量)
 〃 : 松岡磐吉   (測量)
 〃 : 伴鉄太郎   (測量)
 〃 : 肥田浜五郎  (蒸気)
 〃 : 山本金次郎  (蒸気)


 
そして


通弁主務(通訳): '''中浜万次郎(ジョン万次郎)''' 。
木村摂津守従者として26歳の'''福沢諭吉'''も乗船していた。


その他、水夫、大工、水焚き(料理人)、医者等 日本人96人。
そして先述の、ブルック大尉達、アメリカ人船員11人が乗船し、


万延元年(1860)1月15日、咸臨丸は横浜を出港した。

 


横浜を出港した当初は、勝艦長が自ら舵輪を操縦し、その腕前を披露していた。
事実、出港前、勝艦長と士官達は、「日本人だけで太平洋を横断する!」と意気軒昂であった。


が、しかし、翌日黒潮に乗り暴風雨に遭遇すると、勝艦長は、木村摂津守とともに
船酔いのため自室から出れない状況となった。


2日目はジョン万次郎を除く日本人すべてが船酔いで倒れてしまった。


そのためサンフランシスコまでの航海は、その操縦等はブルック大尉とアメリカ人船員と
そして、自身捕鯨船で7つの海を航海した経験のある、中浜万次郎の助力がなければ
勤まらない状況であったという。


特に、艦長である勝麟太郎は、木村摂津守も手を焼いたようだ。

 


勝海舟の船酔い」は実はかなり有名な話であった。
陸上では大風呂敷で豪快に見せて、実は船上では弱ってしまい、
弱っているだけならまだしも、艦長の権威を嵩に乗務員に八つ当たりをするものだから、
船内での人望はさっぱりだったようだ。


太平洋のど真ん中で「おれはもう帰るから小船をおろしてくれ」と水夫に命じたとか
そのワガママ話が多く残されている。


木村摂津守従者として同行した福沢諭吉は、そんな勝艦長とそりが合わず、
のちに自伝でも、咸臨丸での勝海舟のていたらくぶりを書き留めていた。

 


そんな内部事情があったにせよ、天運の船である。
大しけに巻き込まれてあわや転覆か?!という危機も乗り越えて、37日間の航行の後


万延元年(1860)2月26日、咸臨丸はサンフランシスコに無事入港した。


サンフランシスコでは、日本からの日米修好使節団を熱烈歓迎し、
毎日のように祝賀会が催され、日本からきたサムライは、アメリカの近代国家や文化に接し、
驚愕し、そして酔わされた・・・・


海上ではただの船酔い艦長であった勝が、陸に上がったとたん、本来の姿を取り戻し
積極的にサンフランシスコの要人や新聞記者達と交友したのである。
さすが!勝安房守である。大風呂敷なところはアメリカ人好みでもあったかもしれない。

 


一方、軍艦奉行の木村摂津守は、若干30歳でありながらも、
終始、幕府代表としての武家の威厳を備えており、アメリカ要人からは尊敬の念を持たれたという。


事実木村摂津守は、咸臨丸に先祖伝来の財宝をすべて船に積み、
そして結局その殆どを使い果たした。


日本海軍の未来のため、日本軍艦による太平洋航海は是非とも成功させねばならないとの想いであった。


そしてアメリカ側も、木村摂津守の立派な人格もあり
使節団がアメリカに滞在する期間にかっかった経費はすべてアメリカ持ちであった。


祝賀会や表敬訪問など、所定の行事を終えた使節団は、
サンフランシスコで修繕作業をしていた咸臨丸の工事完了を待つのみである。


万延元年(1860)閏3月19日、咸臨丸はサンフランシスコを出港し帰国の途についた。


途中ハワイへ寄航し、


万延元年(1860)5月7日、品川港へ無事到着。


翌日、木村摂津守と勝麟太郎は、さっそく江戸城へ登り、
将軍家茂に拝謁、航海の次第を言上した。


青年将軍の家茂は、アメリカの事情を詳しく聞き、また摂津守が献上した、
鉱石見本や、洋画などのお土産をとても喜んだ。


(もしかしたら、大河ドラマのように天障院も拝謁したかも・・?)


ちなみに、日米修好使節本団を乗せたポーハタン号も、咸臨丸に13日遅れて
サンフランシスコに入港。
そしてパナマ運河を越えて、ニューヨーク、ワシントンも視察してのち、ナイアガラ号に乗り換えて
文久元年(1861)9月26日、無事品川へ帰国していた。


ポーハタン号使節団のメンバーは


正史  外国奉行 新見正興
副史  外国奉行 村垣範正
目付  '''小栗忠順'''  

 


後年、勝海舟のライバルとなった小栗忠順が、同時期アメリカへ派遣されていたというのは
興味深いことである。

 


さて、アメリカの新しい風を乗せて意気揚々と帰国した咸臨丸だが、
この後に起こる幕末の嵐に遭遇し、また寄る年波にも勝てず、その役割を終えることとなる。


1862年 小笠原諸島巡視、父島と母島探検。
    艦長は小野友五郎、中浜万次郎も通詞として乗船 


1866年 酷使のため故障頻発していた蒸気機関を撤去。帆船となる。


1868年 戊辰戦争勃発
    榎本艦隊と共に江戸を脱出するも暴風雨にあい清水港へ修理のため入港。
    しかし、修理が遅れたため新政府軍艦隊と戦闘となり、敗北。
    乗組員の多くは戦死または捕虜となる。 

 

 


このとき清水港の浜辺に逆賊として放置された乗組員の遺体を、清水次郎長清水市築地町に埋葬。
当時、静岡藩参時であったと山岡鉄太郎(鉄舟)が、次郎長親分の狭義に感激。
いまでも鉄舟が揮毫した墓が残っている。 


そしてその最期は・・・
 
1871年 明治3年 9月19日


片倉氏の旧臣401名を移住させる目的で北海道小樽へ向け出航したが、輸送途中、
北海道木古内町泉沢沖で暴風雨により遭難し、サラキ岬で破船、沈没する。 


未だその沈没場所は不明であるが、北海道木古内では、咸臨丸を製造したオランダとの交流を通じ
毎年、きこないチューリップ祭りが開催されている。

 


幕末、咸臨丸に乗船したその多くは幕府側の人間であった。
将来を嘱望された旗本の子弟や青年の多くが戊辰戦争でその若い命を落としている。

 

 


しかし、咸臨丸が日本の軍艦として初めて太平洋を横断し、アメリカへ渡航した意味は大きい。
日本人も欧米並みの海軍を操れるかもしれないという希望が芽生えた。
それ以降、幕府だけでなく諸藩はこぞって、近代化へと取り組みを始めたのである。

 


【エピローグ】


咸臨丸がアメリカから帰国して10年後。


岩倉具視を正使とし、政府のトップや留学生を含む総勢107名が、明治4年11月12日(1871年
アメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された。
いわゆる『岩倉使節団』である。
咸臨丸の故郷オランダを含め、訪問した国は12カ国に上る。


10年前には「攘夷」を叫んでいた志士達は、断髪・洋装で乗船し、
列強の文化と軍事力を目の当たりにして「富国強兵」「文明開化」への強行な政策転換を断行。


その姿は、日米修好使節団として渡米した幕臣たちの姿と二重写しとなる。

 


幕臣尊皇攘夷の志士達も、日本の未来を憂う気持ちは、
同等に評価されてしかるべであろう。

 


咸臨丸の『咸臨』とは君臣が互いに親しみ合うことを意味するそうだ。(易経より)


写真:「咸臨丸難航図」(横浜開港資料館保存)

 


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これも2008年の記事です。
こちらも11年間訪問者が絶えず
アクセス解析のTOP10には入っている
人気の記事です。


大河ドラマ 篤姫 の影響で書いた記事は
息が長く愛されており
有難いと思ってます。


大河ドラマで、幕末が舞台になると、
アクセスが増えるのも特徴です。


昨年の大河 『西郷どん』放映中も
その恩恵に預かりました

 


https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/58353259.html

 


2008年10月3日 午前0:26 Up