ゆーくんはどこ? はてなブログver

yahoo!ブログからお引越し予定⭐︎ 歴史、ドラマ、ピダム好き❣️

蛇の女房 〜 細川ガラシャ

f:id:tomotomo0014:20190611215356j:image


明智光秀の娘で、戦国時代、絶世の美女といわれた明智玉子。
むしろ洗礼名の「細川ガラシャ」が有名であろう。


美貌でありながらも大謀反人・明智光秀の娘という十字架を背負い、
それでも最期まで誇りを失わずに命を絶った悲劇の女性。


明智光秀細川藤孝(幽斎)が入魂の仲であったため、藤孝の嫡男・忠興の正妻となる。
新婚当初は仲睦まじい夫婦であったが、いつしか


'''「鬼の亭主に蛇の女房」'''と呼ばれるようになった。

 

 


忠興は秀吉傘下の武将の仲でも武闘派の筆頭格で、激烈な性格で有名であった。
そのため「鬼」と呼ばれてもおかしくはない。


しかし、何故、敬虔なキリスト教徒でもあったガラシャが「蛇」なのだろうか?

 


それはこんな逸話が原因とされる。


時は、秀吉による伴天連追放令(1587年)以降の大阪細川屋敷。


忠興とガラシャが食事中、夫婦喧嘩となった。
そのとき、瓦職人が屋根から転がり落ちた。


忠興は「無礼者!」と即座にこの瓦職人を切り捨て首をおとし
なんと、ガラシャの御膳の上にその生首を乗せたという。


ところがガラシャは顔色一つ変えず、箸さえもとめずに食事を続けたという。


その様子を見た忠興が
「蛇のような女(おなご)じゃな」とあきれたところ


ガラシャ
「鬼の女房には蛇がふさわしゅうございます」と冷たく答えたそうだ。

 


この話が広まって「鬼の亭主に蛇の女房」という強烈なレッテルがつけられたのだという。

 


生首の載った食卓は流石に映像にふさわしくないので、時代劇や歴史ドラマでは
演じられたことはない(はず)だが、ガラシャと忠興はこのようなすさまじい夫婦関係であったのだ。

 

 


ただし、この逸話を深読みすれば、当時の状況が推測される。

 


忠興とガラシャがもめていたのはもちろんガラシャの信仰についてであろう。

 


忠興は美貌の妻を激しく愛しており、他の男の目につくのさえ嫌がり、無断で口を聞いた家臣を
問答無用に切り捨てたという。
少々、異常性格であったようだ。
そのためガラシャは一歩外出もできず、隔離された部屋で監禁状態であった。

 


さらにこの当時すでに秀吉のバテレン禁止令が出ており、したがわない大名には
厳しい制裁が下されていたことも、この監禁を長引かせる結果となった。


ガラシャが信仰を捨てないとなれば、離縁どころかお家断絶の危ない状況であったのだ。

 


また、忠興の深層心理を探れば、激愛する妻が宗教上の神とはいえ、
他の男性(キリスト=ゼウス)に心が奪われているのは我慢ならなかったのではないか?

 


しかしガラシャにとって信仰を捨てることは、生きることをやめることであったのだ。

 


更に深読みすれば、喧嘩のとき屋根に潜んでいた瓦職人は「間者」であった可能性は高い。
石田三成あたりの差し金であろう。


もし間者にガラシャとの口論の内容を聞かれ、ガラシャキリスト教徒であることが
公になることは、絶対に避けなければならない。

 


忠興が瓦職人を問答無用・一刀両断に切り捨てたのは、こういう理由があったからだ。
そしてその生首をガラシャにこれ見よがしに見せ付けたのは


「信仰を捨てない限りお前もこうなる」そういう威嚇の意味もあったろう。

 

 


監禁、暴力、威嚇・・・現代でいえば、DV ドメスティックバイオレンスといえる夫婦間である。

 


しかし、いやこんなDV夫だからこそ、ガラシャは信仰に頼ったのである。
当時、女性からの離縁など、不可能であったからだ。

 


ガラシャが顔色一つ変えなかったのは、そんな脅しには屈しないという
彼女の精一杯の抵抗であったと思う。

 


忠興は、しかしそんな妻を、最期まで他の男の目には触れさせなかったのである。

 


ガラシャの最期・・・

 


1600年 関が原直前の7月17日。
徳川家康側についた忠興の出陣中、大坂玉造の細川屋敷は石田三成の軍に囲まれていた。


この状況を見越していた忠興は人質になるくらいなら自殺せよとガラシャに命じていた。


しかし、キリスト教で自殺は禁止されている。大罪であるのだ。
キリストの教えに旬じるため、ガラシャは家臣小笠原秀清に命じ、
襖の外から槍で自分の胸を突かせた。


そしては小笠原秀清は屋敷に火をつけ自分も自害。
ガラシャの遺骸すら三成へ引き渡すのを拒んだのである。

 


壮絶な殉死といえよう。

 


蛇の女房といわれたガラシャ
忠興よりも激しい内面をもった、純粋で真っ直ぐな女性であったのだ。

 


明智玉子(細川ガラシャ
永禄6年(1563年) - 慶長5年(1600年)7月17日
37歳の波乱に満ちた人生であった。

 


写真:大阪カテドラル聖マリア大聖堂玉造教会(旧細川屋敷に隣接している)

 


**********************

 


戦国時代に関する記事の中でも
長く読まれている記事の一つです。


来年の大河ドラマ明智光秀にちなんだ
選択でもあります。


麒麟が来る』楽しみでしかない

 


https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/57010129.html

2008年6月27日午前0:29 up