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武市半平太と岡田以蔵の最期〜土佐勤王党弾圧

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① 岡田以蔵の逮捕


「人斬り以蔵」と畏れられた以蔵は、文久3年(1863)2月、突然土佐藩を脱藩し、
京都長州藩邸の寄寓して、高杉晋作の庇護を受ける。
(江戸の長州藩邸の説もあり)


文久3年2月頃より再び坂本龍馬と交流を持ち、以蔵の将来を心配した龍馬の依頼で
3月に伏見で勝海舟の護衛を任せている


そのとき以蔵は、勝海舟を襲撃した3人の刺客から勝を守り、
さらに、勝の命令で、ジョン万次郎を護衛し、6人の襲撃者を撃退したという。


勝海舟や龍馬の思いに応えた以蔵は、天誅という名目の暗殺を禁じた。


しかし粗暴な行動をとり、節度を失った以蔵は、次第に女酒に溺れるようになって
土佐勤王党の仲間からも見捨てられてしまう。


そして元治元年(1864)、土井鉄三と変名し、京で潜伏していた以蔵は、悪事を働いたかどで
京都所司代に逮捕されてしまう。
そして『無宿者鉄蔵(三)』として入墨され洛外に追放された。


土佐勤王党の弾圧を強めていた土佐藩は、以蔵の追放の事実を知ると、
二条通紙屋川の土手で以蔵を逮捕し、船便で土佐へ檻送して6月14日、山田町獄舎へ投獄した。

 


② 武市半平太の手紙


文久3(1863)年9月21日逮捕された武市半平太
土佐藩庁の大監察によって尋問されていた。


大監察のメンバーは、小笠原唯八、高屋友右衛門、後藤象二郎、麻田楠馬、間忠蔵、
寺村勝之進、乾退助(後の板垣退助)と、すべて上士の面々であった。


特に、吉田東洋の義理の甥である後藤象二郎は、東洋暗殺の下手人探しに執着していた。


とはいえ、同じ上士格の半平太を拷問することは出来ず
「屏風囲」という取調室で、後藤は半平太を直に尋問している


元治元年5月25日付けで、隠れ土佐勤王党員である獄吏を通じて
家族(富や親戚)へ届けられた手紙には


「京のことを詮議するつもりで、ほかにはなかろうと思います」


と、吉田東洋暗殺に対する詮議は無いだろうと、武市は軽く考えていた節がある。

 


しかし、獄中にある半平太達に対する訊問や、党員への拷問が激烈になったのは
元治元年6月、京都から以蔵が檻送されてきてからであった。


それまで、土佐勤王党の同志達は、
どんなに凄まじい拷問を受けても、吉田東洋暗殺の関与を認めなかった。


しかし、志士としての節度を見失った以蔵は、拷問の対象としてうってつけだったのだ。

 


武市半平太は、元治元年(1864)6月15日に家族宛ての手紙で、以蔵の事を痛罵している。


「さて、きのうは岡田以蔵がでておった。
きのう船が着いたものか。


それから下(山田獄舎)へいたようすにて候。
おおかた下の牢に入ったことであろうと思い候。
きのう北うらから戻りに、以蔵がおるところをのぞいてみたけんど、見えざったよ。


まことのあのような阿呆は、やはく死んでくれればよけれど、
あまあま御国へもどり、まことにいいようもなきやつ。


さぞやさぞや親がなげくろうとおもい候。
きのうも、牢番らあと、長州でどうやら、吉村虎太(虎太郎)がどうやらなどど、
大声ではなしをしよった。」

 


武市半平太岡田以蔵を、見下している様子が伝わってくる。

 


③以蔵毒殺事件


以蔵毒殺事件については、実行されたか、否か、諸説ある。


外部に閉ざされた牢獄内の出来事のため、真実は闇のなか、なのだろう。

 


小説などでよく採用されるのは、以下のストーリー。


激しい拷問に耐え切れず、
吉田東洋暗殺などの重要事件を自白してしまうのではないかと恐れた武市半平太は、
実弟を服毒自殺せしめた猛毒「天祥丸」入りの毒まんじゅうを、以蔵に差し入れする。


毒まんじゅうを食べた以蔵は、しかし、元来の強い生命力のため一命を取りとめたものの
自分を亡き者にしようとした武市半平太や、土佐勤王党を逆恨みして


東洋暗殺や多くの天誅事件について自供し
そのため、半平太らは処刑され土佐勤王党は壊滅した・・・


しかし、最近は、
「毒殺は実行できなかった」・・・という説が有力である。

 


6月に京都から檻送された以蔵は8月10頃に拷問を受け、たちまち井上佐市郎殺害を自供してしまう。


以蔵の自供で、村田忠三郎や岡本次郎、久松喜代馬らが投獄され
彼らも激しい拷問のために、次々と口を割り始めた。

 


以蔵ならば、吉田東洋暗殺の黒幕を自供するのではないかと
後藤らは、以蔵の拷問をますます苛烈にする。

 


これ以上の自供を食い止めるため、土佐勤王党内で以蔵毒殺計画が持ち上がる


しかし以蔵の家族の許可なく毒殺は出来ないと
同志らは以蔵の父儀平と、実弟啓吉に毒殺の許可と取ろうとしたが
家族はこれを拒否した事から、毒殺計画は実行されなかった。

 


どちらが史実に近いのであろう?

 


「武市の窮屈」と龍馬からもあだ名をつけられた武市の性格から考えれば、
見下していたとはいえ、かつての部下を、問答無用で毒殺するよりも


ちゃんと家族の同意を得てからと考えたほうが、自然のように思える。


なぜなら以蔵は、吉田東洋暗殺について最期まで自供しなかったことが
史実から分かるからである。


(自供せず耐え抜いた大河ドラマの以蔵にのようだ)

 


④ 岡田以蔵の最期


島村衛吉は厳しい拷問耐え切れず慶応元年3月23日に、最期まで口を割らずに
獄死してしまう。


また、武市の実弟である田内衛吉は、元来病弱だったこともあり、激しい拷問に自供を始めてしまう。
元治元年11月28日、これ以上の自白を恐れた衛吉は、
兄・半平太が獄外から入手した「天祥丸」飲み服毒自殺をしてしまう。


武市も自らの拷問も覚悟したが
上士であったたため藩令により結局、拷問を受けることはなかった。

 


慶応元年(1865)閏5月11日、遂に勤王党への取調べは結審を迎える。


土佐勤王党員らは最期まで吉田東洋暗殺事件は無関係と押し通した。


つまり、岡田以蔵も東洋暗殺について口を割らなかったのである。


結審で、岡本次郎や村田忠三郎、久松喜代馬と岡田以蔵は山田獄舎で斬首刑となった。


岡田以蔵は最も罪が重く、獄門刑となり、鏡川上流の雁切河原に首が三日間晒された。

 


以蔵の辞世の句は
「君が為め 尽くす心は水の泡 、消えにし後は 澄み渡る空」

 

 


・・・忠誠心が水の泡のように消えて、むしろ心は空のように澄み渡っている。


稚拙ではあるが、感情がストレートに伝わってくる句である
この句を読む限り、以蔵が巷間で言われているほど無教養とは思えない


武市半平太の「攘夷実行」のため、人斬りとなってしまった以蔵にとって
獄舎から見える青空だけが、彼の救いの場所だったのだろう。


享年 28歳。


岡田家はその後、兄の毒殺を許可しなかった弟の啓吉が継ぎ、現代に至っている。

 


⑤ 武市半平太の最期


岡田以蔵らが斬首された同日の慶応元年(1865)閏5月11日
土佐勤王党の首領・武市半平太が、高知城南会所大広庭で切腹を申しつけられた。


他の同志と同様に半平太も吉田東洋暗殺事件に関しては否認したままの結審であった。


宣告文は、大監察・後藤象二郎が読み上げた


武市半平太


去る酉年以来、天下の形勢に乗じ、ひそかに党与をむすび、人心扇動の基本を醸造
爾来京師高貴の御方へ、不容易の儀すすめ申し上げ、はたまた
御隠居様へしばしば不届の儀もうしあけ候ことども、すべて臣下の処分を失し
上威を軽蔑し、国憲を糜乱し、言語道断、重々不届きの至り、
屹度不快に思し召され、厳科に処せられるべきところ、御慈恵をもって切腹これを仰せつけられる」

 


山内容堂公の不届きや京での政治活動などが、罪状となっており
吉田東洋暗殺についての断罪がないところに、土佐勤王党の意地が汲み取れる。

 


そして武市自身も、武士としての最期の意地を見せる。

 

 


身を清め正装した武市半平太は、過去誰も成し遂げたことがないと言われる「三文字割腹の法」を用い、切腹した。


富の実弟・島村寿太郎と甥の小笠原保馬が左右から脇差を突き刺して、介錯したという。

 


「三文字割腹」とは、文字通り 三の字で腹をきる壮絶な切腹で、
検視役の袴に半平太の切腹の際の血が飛んで来て血に染まったという話が残っている


辞世の句は、
「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり 」


享年 37歳。


白札という低い身分ながらも、土佐勤王党を結成し
一時は幕府や朝廷を動かすほどの活躍を見せた武市半平太


間違いなく、幕末の英雄の一人である。

 


半平太の切腹の際に身につけたのは、富子が縫いあげて届けた死装束であった。
死に際、愛する妻を想い続けていただろう。


夫の刑死で武市家は困窮を極めたが、維新後、宮内庁大臣に出世した田中光顕ら、
瑞山会の庇護によって晩年の富子は手厚く遇され 大正6年(1917年)87歳で亡くなる。

 

 


⑥ 野根山屯集事件


土佐勤王党への弾圧は、何も獄舎内での拷問だけではなかった。


獄外で実に残酷な事件が起こっていたことを、ここでご紹介したい。


元治元年(1864)6月13日、
香美郡、長岡郡土佐郡吾川郡高岡郡の5郡の土佐勤王党有志代表29名が藩庁を訪れ、
投獄された武市半平太以下同志の釈放を求めたことが事件の発端である。


安芸郡の代表者・清岡道之助は強攻策を主張するが賛同する者がおらず、
道之助らは単独で決起することを決意した。


元治元年7月、安芸郡の同志23士は土佐三関の一つ野根山の岩佐番所武装屯集して
藩庁へ半平太ら同志の釈放を求める嘆願書を提出した。


しかし、後藤象二郎ら大監察は、これを反乱とみなし
大監察の小笠原唯八率いる藩兵800人が、野根山討伐に向かった。


23人は、阿波藩領の甲浦へ逃れ、そこから海路長州へ逃亡するつもりでいたが、
阿波藩兵に捕らえられ身柄を土佐藩に引き渡されてしまう。


土佐藩庁は23人を縛り上げ、安芸郡奉行の獄舎に監禁した。
そして、藩主へ抗する意思は明確ゆえ、監察役人の吟味を省いて、
即刻斬刑に処すべきと主張した。


大監察の小笠原唯八は、吟味なしで、23人もの藩士を処断することをさすがにためらい、
藩主の直書を賜りたいと直訴した。

 


しかし、小笠原に届いた直書は、非道そのものであった。


郷士清岡道之助ら二十余人、徒党をむすび、兵器をたずさえ、野根山中に駆け集まり
事を構え強訴し、ついに自国を捨て、阿州路に逃亡いたす条、不届至極につき、


その罪吟味を待たず、東郡中において、すみやかに首を刎ぬべきものなり」


これは、山内容堂が側近に書かせたものである。


元治元年9月5日、23人の志士は、なんの取調べを受けることもなく
奈半利河原に幕を張り巡らせた囲いのなかで悉く、斬首された。

 


まさに人権蹂躙、非道の極みである。

 


山内容堂専制君主として君臨する土佐藩が、
維新後勢力を拡大することができなかった理由の一つが


土佐勤王党を徹底的に弾圧し、志士の多くを自らの手で葬ったことにある。

 


無慈悲で非道な弾圧によって失ったものは、計り知れないほど大きかったのである。


武市逮捕まで
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/63286470.html 『龍馬伝 第21回「故郷の友よ」 』


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私のブログの中で、
日々のアクセス解析では常にTop5入り。

 

ダントツNo.1アクセス回数が多い記事です

 

2010年大河ドラマ龍馬伝』に夢中になり
熱に浮かれたように書きました。
本来ならもっと長文でしたが、Yahoo!ブログは
当時5000文字の制限があったため、真夜中に泣く泣く削って編集した記憶があります


https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/63469828.html