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藤原京のトイレ問題 〜 歴史 DE エコ シリーズ②

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2008年洞爺湖サミットは別名環境サミット。
温暖化から地球環境を守るための方策や規制合意等が最重要課題とされています。


環境問題は歴史の視点からも様々な考察ができます。
環境の変化や劣化が歴史に与えた影響を無視することはできません。

 

実は今から約1300年前、環境問題に直面した都市がありました。

 

694年に飛鳥浄御原宮から遷都した「藤原京」です

当時の天皇持統天皇


天皇家の絶対権力を象徴するような大都市開発でありましたが、
わずか16年しか続かず、平城京への遷都が行われたのです。

 

なぜなのでしょうか?


その理由として最近クローズアップされているのが、都市の衛生環境問題、


すなわちトイレ問題なのでした!

 


実は意外だと思われるかもしれませんが、古代から藤原京ころまでのトイレは水洗式でありました。
川の多い日本では、汚物を水で流すのはある意味自然であったのです。


「厠=かわや」の語源も「川屋」ではないかといわれています。


そのため都市計画において川の流れや水路の造営は重要な鍵であったわけです。

 

実はこの藤原京天武天皇が、場所を選び、都市計画を立てていたのです。


遷都実行委員長 兼 遷都プロデューサーといえるでしょう。

 


しかも、天武天皇は、このブログでも何度も紹介していますように
占星術や陰陽五行説のエキスパートでありました。

 

日本書紀には、天武天皇が星の運行や方角に大変敏感であったことが記載されています。
藤原京天武天皇が、その英知を傾けて選定した場所なのでありました。

 

しかし、その実現を待たずして天武天皇崩御されました。

 


頓挫しかけた藤原京遷都ですが、夫の遺志を引き継ぎ遷都を実行したのが妻の持統天皇


天武天皇のプランをを尊重しすぎ、陰陽五行の方角を優先してしまい
川の流れを不問にしたのが間違いであったのでしょう。


藤原京大和三山に囲まれ中央を飛鳥川が南北に流れる、いわば「四神相応」の場所であったのです。


そして北が上位で、そこは天皇や貴族たちが住む場所。
南に庶民が暮らす町が形成されたのです。

 


しかし飛鳥川が南から北へと流れています。
つまり庶民の「下のもの」が貴族の屋敷の方に流れてゆく構造になっていたのです。

 

陰陽五行的には完璧ではあっても、川の流れを逆さにするだけで、
都市環境はたちまち悪化するのでありました。

 


最近の発掘調査でも、藤原京は、平城京に匹敵する規模を備えた大都市であったことが確認されました。
人口は10万人を超えていたといわれています。


そんな庶民の大量の「排出物」が貴族の屋敷の中にどっと流れ込むわけですから、
特に雨の日などは大変な悪臭が漂っていたのではないかと想像できます。


悪臭に加えで不衛生この上なく、伝染病の巣窟となったでありましょう。

 

藤原京大極殿(古代朝廷の正殿)には大きくて多分華麗な水洗トイレがありましたが、
そのトイレから悪臭が京の内外に充満するので取り締まるようにという詔まで発せられていました。

 

取り締まれ!と命令されても・・・
川の流れを変えることなどできません。

 

結局、16年で都を捨てて、平城京へ遷都したのではないかと言われているのです。

 

藤原京で懲りたのか、平城京から貴族は水洗式トイレを用いなくなり、
寝殿の中に専用の便所を設けるようになりました。


いわゆる汲み取り式(肥溜)トイレですね。


この風習は結局明治まで続き、西洋の下水道に連結された 近代的な水洗式トイレが導入されたのは
明治7年のことでした。

 

今から1300年前トイレの悪臭に耐え切れなく遷都したとも考えられる藤原京は、
現代都市の抱える問題を検証する上でも重要な遺構であります。


さらにこの都市の造営が別の場所で深刻な環境問題を引き起こしていたことも分かっています。


それは森林伐採による自然破壊です。
恐ろしいことに、1300年たっても破壊された自然は戻っていません。

 


長文になりましたので藤原京の自然破壊についてはまた別途、紹介します!

 

2008洞爺湖サミット勝手にコラボ記事
【歴史DEエコ】
「大江戸・ゴミ事情」

 

【その他参照記事】
「四神」
天武天皇陰陽道


写真:藤原京模型図

 
 
******+*******+********+*********
古代史も好きで、卑弥呼聖徳太子、曽我氏等、あれかれ記事を結構書いてますが、熱くなり過ぎて長文でマニア向け   一般的にはあまり人気もなく
そをな中この記事は、何故かアクセスも多く、古代史関連では、一番人気です。
肩の力を抜いてライトに書いたからかな?
https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/57194174.html

2008年7月9日午後11:26 Up

 

 

関羽の「過五関斬六将」

演義」や小説世界の官渡の戦いの場面で最も目だっているのは
我らが美髯公関羽です。


袁昭の猛将 顔良文醜をあ~っというまに切り捨てて名を馳せただけでなく、
これで曹操への恩義も果たしたと、曹操への礼もつくして二夫人とともに
劉備のもとに駆けつけ、まさに忠義一本、義の道に生きる関羽の雄雄しい姿に
古今東西、読者の多くがしびれたことでしょう。


しかも、曹操の元を離れ、劉備の元へ馳せ参じる途中には魏の5つの関所があり、
関羽の目前に立ちはだかるも、関羽は堂々と関所破りを敢行し、
これら五つの関所を守る六人の大将を斬ったとあります。
いわゆる、「過五関斬六将」ですね~!


英雄が次々と立ちはだかる関所を破って逃亡するってのは、
義経都落ちにも似ていて、はらはらどきどきさせる効果もあります。
まさに三国志的RPG!


ところが、この名場面で一連の関羽の活躍が、ほとんどフィクションだったと知ったときは
かなり悲しかったです。


なんと、官渡の戦で関羽が斬ったのは、顔良だけ。
しかも、袁昭軍にいた劉備が、「関羽は降伏するはずだ」と言ったので
それを信じて油断した顔良関羽がいきなりバッサリと斬りつけたという。
「だまし討ち」だったってわけです
義に生きる関羽にはふさわしくないお話だったんですね・・・

さらに「過五関斬六将」はまったくのフィクションで事実ではない!
つまり、関羽は堂々と関所破りをしたわけではないってことなんです。しかも、劉備に会うため、許都から河北の袁昭へ向かうために、
わざわざ反対方向の洛陽へ行くのも、ありえないそうです。。。


後世、神様としてあがめられるまで人気があった「関羽」については
さまざまな伝説が各地に伝えられて、それが演義世界に反映したとか。


つまり演義世界での「関羽」の活躍は伝説(フィクション)が殆どなんだそうです。


それでも関羽の忠節に偽りはなかったはずです


「伝説的となった英雄」にはそれなりの神格化されるべき要素があったのだと思います。
誇張されたとはいえ、関羽劉備に対する忠節や、義に即した生き方を
不器用であったけれども、まっとうしたのではないかと私は信じています 

ところで、関羽に秒殺された「顔良」(がんりょう)ですが、
「かおよし」と入力して変換しています。
ほんとうに「イケメン」だったんでしょうか・・・?

 
 
 
***********+***********+************+
三国志も好きで、特に正史と演義の違いに興味がありました。
諸葛亮孔明のファンですが、曹操関羽に関する記事には、令和になった今でもアクセスがあり、有難いことです。
息子の13歳の誕生日に、横山光輝先生の三国志全巻をプレゼントしたところ、すっかりマニアになってしまい、登場人物や地名やら、今では私よりも詳しくなってしまいました


https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/41263713.html

2006年9月2日  午前2:24 Up

八重の桜 第35回 尚之助の最期に号泣する


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尚之助さんの最期は、 


あまりにも残酷で現実的で、辛くて悲しくて 


深夜に録画を観てから涙が止まらず 

2時間くらい、泣きっぱなしでした。 

泣き過ぎて頭が痛くなったほど。 

尚之助ファンの皆様も、同じような状況に陥ったのではないでしょうか。 

 

あの最期は、反則だよ。 

無残ゆえに崇高すぎる。 


たった数シーンながらも 尚之助の魂を、

緻密に計算された演技構成をベースに、 

凄まじい気迫で熱演された長谷川博己さん。 

 

35回のタイトルは「襄のプロポーズ」だけれども 

私にとっては、「尚之助の最期」でしかありません。 


今はそのこと以外に、考えることも書くこともできません・・・

 

東京での再会と別れから2年。 

音信不通のまま、夫婦として暮らすことも叶わず、 

新島襄からの突然のプロポーズにも、戸惑うばかりの八重。 


藤田五郎斎藤一)と所帯をもった時尾と久しぶりに再会し、 

八重は、胸に秘めた尚之助への思いを親友に吐露します。 

苦労してでも側にいて助けたかったと。 


時尾はそんな八重に、

「もし尚之助さんの立場にたったら 

八重さんも「自分のことは忘れて欲しい」と云うんじゃないか」と答えます。 

「大切な人を辛い境遇に巻き込みたくはないから」と。 


ええ、その通りなんです。 

私達ファンも、同じ思いで尚之助さんの辛い胸の内を汲み取ったつもりでした。 


「何も成すことができなかった、これが私の身の丈にあった暮らしです。」 と

すべてを諦めた遠い目の尚之助さんの最期は、 

病院の一室で、八重や会津での日々を回想し、静かに旅立つのだろう・・・

と私は勝手に想像しておりました。 


ところが、35回。 

京都から場面が変わって、東京・鳥越。 

やたら明るい陽の光の中、病院ではなく、ぼろ長屋の片隅で、 

机に向かう尚之助さんの姿が映し出されます。 


鬼気迫る表情で一心不乱に筆を進め、

机の周りには、彼が書き記した書類の束が散乱しています。


胸を裂くような激しい咳に見舞われ、筆先が震える・・・ 

それでも一字一句、渾身の筆を進めるその姿からは 

【青白い炎】がはっきりと見えました。


そして、容赦なく襲う咳と胸の痛みを堪えながら、 

尚之助さんは、細い声で、でもしっかりと自分に言い聞かせるように、 

こう言ったのです 


「しっかりしろ・・・まだ書くことはある。」と。 

 

この言葉を聴いた刹那に、私は言葉にならない衝撃を受けて、絶句し、 

前後不覚の大号泣に陥ってしまいました。 

 

尚之助さんは、人生を諦めてなどいなかったのです。

 

「しっかりしろ。」

 

と自分自身を励まし

 

 「まだ書くことはある。なすべきことがある」 ・・・「生きたい。」と渇望していたのです。

 

 

しかし現実は残酷です。

切り替わった画面に映し出されたのは、机に突っ伏して動かない尚之助さん。

息をしていないかのようです。

 

隣人が驚いて駆け寄り助けようとすると

もう起き上がる体力もなく、ごろんと仰向けに転がってしまいました。

 

あの、かっこいい尚之助さんが、なぜこのような無残なお姿に・・・あああ。

 

もはや虫の息であることは一目瞭然です・・・

そして小さく「八重さん・・・」とつぶやき、そのまま事切れてしまいました。

 

小さく微笑んだようにも見えました。

人の死とは、このようにあっけないものなのです。

 

その後、京都の覚馬の元に、「尚之助の死」が伝わります。

尚之助が死の間際まで書き綴っていたのは、「会津戦記」。

 

「やり遂げたいことがある。」と病院を抜け出し、重い肺炎に苦しみながら、綴ったものだったのです。

 

覚馬は、「尚さんは、長い時をかけた戦死だ。」と言いました。

でも私は戦死だとは思いません。

尚之助さんは、最期まで生きることを諦めず、何かをなすことを諦めてはいなかったからです。

 

おそらく八重と再会して、心境の変化があったのでしょう。

会津戦記」を書き上げれば、八重さんを東京に呼び戻すつもりだったのではないでしょうか。

 

 

今年の大河ドラマは「復興」がテーマです。

だからこそ、尚之助に、無惨で惨めであっても最期まで「やり遂げよう」とする

人間の魂、ソウル、を体現させたのではないでしょうか。

 

100%結果がでるとは限らない、尚之助のように、無念の結末を迎えるかもしれない。

けれども、「守りたい大切な人やもの」があれば、人はどんな逆境にでも立ち向かえることができる。

 

「しっかりしろ!」と自分を励ましながら。

生きる力を振り絞りながら・・。

 

 

 

そして尚之助の絶筆の演技たるや・・・。

 

激しい咳と苦しみにで震える指で、それでも激しい思いを込めて、しっかり筆を握りしめ

「婦人」という草書を書いていました。

 

川崎尚之助の、最期の命のほとばしりです。

長谷川さんが自らの手で書きたい、と願われたのではないでしょうか。

きっと撮影前に練習もされたのでしょう。

 

画面の端であろうが、一瞬のシーンであろうが、どんなときも決して手抜きをしない

長谷川さんの役者魂、なればこそです。

 

 

そう推測すると、京の覚馬の手元に届いた「会津戦記」を

八重さんが、手に取ることすら出来なかった訳も分かります。

 

私も経験ありますが、「懐かしい文字」は、大切な人の魂そのものだからです。

尚之助の最期の筆跡を見てしまえば、気丈な気持ちが、たちまち崩れてしまう事でしょう。

 

また「死の間際の人の字とは思えない力強さがある。」と新島襄が言い、

目が見えない覚馬が、その文字から尚之助の命を感じたことも、納得できるではありませんか。

 

 

尚之助が命を削って書き残した「会津戦記」は、

希望的観測ですが、山川建次郎の手に渡るのかもしれませんね。

せめてドラマでは、尚之助さんの生きた証を、継承してほしいのです。

 

ただし、ドラマがそうなるのかどうか、私は見届けることはないでしょう。

八重さんが別の男性と結婚して幸せになる姿を傍観できるほど、心は広くありませんから・・・

 

正直に言えば、深く愛した夫の死を、鳥羽伏見の土を触ったくらいで、昇華できるのでしょうか?

サンドイッチを食べて、乗り越えることができるのでしょうか?

どうも納得できません・・・軽すぎるというか・・・(辛口、すみません)

 

 

ただし八重が故人を回想し、涙を流す場面は、違う意味で滂沱の涙を誘いました。

かっこよくて明るくて優しい笑顔の尚之助さんが、遠のいていくようで・・・

 会津戦争さえなければ、八重さんと一緒に笑いあって暮らせたのに。

 

綺麗な容姿で水も滴る美青年の彼が、

ぼろぼろで無惨な姿で、孤独の死を迎えることの残酷さが、ずしりと胸に迫ります。

 

それでも、川崎尚之助の人生に、ここまで魅了され心振るわせ涙するのは、

報いられぬことが分かっていても、愛する女性と彼女の故郷のために、

ただ、ひたすら一途に愛を貫いた、純粋で崇高な魂ゆえでしょう。

 

「私はここで生きたい。八重さんと一緒に、会津で生きたいんです。」
八重へのプロポーズの言葉のまんま、「生きて愛して死んで」いったのです。

 

 

それにしても、長谷川博己さんの演技の凄まじさたるや! 

圧巻でした

 

長谷川さんは、何もせず立ってるだけでも、色気のある
俳優さんです。

なのに、尚之助さんの最期のシーンは、ご自身の色気をすべて封印していました。

 

「雲の階段」の相川三郎のように、「頽廃の色気」漂うお姿でも良かったでしょう。

女性ファンはそのセクシーさにとろけてしまうのですから。

 

しかし、長谷川博己さんは、あえて、セクシーさを封印したたぼろぼろ尚之助で、最期のシーンの

勝負をしてきたのです。

 

尚之助の悲劇と無念と、

「しっかりしろ、まだ書くことはある。」という魂の叫びがより際立って、私達の胸を直撃し、

その切なさに、涙が枯れるほど号泣してしまいました。

正解だったのですね。

 

 

深い想像力で人物像を掴み、緻密に計算した演技を組み立てて

繊細、かつ大胆なアプローチで役になりきる卓越した技量と、

派手さはないけれどもじわりとくる存在感。硬軟併せ持った、稀有の俳優さんです。

 

今回の演技で、セクシー男優のくくりなど、蹴散らしてしまいました。

実力俳優の堂々仲間入りでしょう。

長谷川さんは、「八重の桜」が始めての時代劇だそうですが、

なかなかどうして、所作も完璧ではありませんか!

天賦の才能に満足ぜず、ひたすら生真面目で練習熱心な努力家だと思います。

 

長谷川博己さんは、近い将来、大河ドラマクラスの主役を担う、TOP俳優さんになるでしょう 

ワタクシが勝手に保障しま~す。

 

次回のドラマが、と、に、か、く、楽しみです。

 

ということで、『八重の桜』の感想ブログは、尚之助さんとの別れをもって終わりにいたします。

 

まだまだ『尚之助様症候群』は治りそうにありません。

今までの録画を観ながら、尚之助メモリーに浸りつつ、

気持ちを少しずつ、「戦国時代」へとシフトする作業にもとりかかるつもりです。 

 

あ、でも「尚之助さま症候群」記事はまだまだ続くかも・・・!

とりあえず、兵庫県の出石へと『尚之助への旅』を企画中です。

「尚之助さん名台詞集
」とか、「川崎夫妻のベストらぶらぶ
シーン」とか・・・

 

 

ともかく、一旦は以前どおりの、ほそぼぞ歴史ヲタブログに戻ります。

 

川崎尚之助の最期に関する史実については、下記ブログ記事の後半をお読みください。

 第33回「尚之助との再会」

http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/66364645.html 

 

TOP写真は、33回「尚之助との再会」 熱い抱擁の名場面 

 


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大河ドラマが好きで
長年にわたり色々と感想を書いてきましたが、
八重の桜🌸で、長谷川博己さん演じた
川崎尚之助の最期を綴ってたこの記事が、
ぶっちぎりNo1で人気があります


2013年は私にとって個人的にも辛い年でしたが、
尚之助さんに恋した 事で、精神的に助けられたと今でも感謝しています。


今読み返しても、赤面するしかないぐらい
ミーハー


でもこの時、長谷川博己さんは必ず大河の主役を演じると書いた予言?が、7年後の来年、
実現します❣️


麒麟かくる。  楽しみでしかない。


長谷川博己さんが出演していた
まんぷく』の影響もあったのか、
昨年からまたアクセスが増えています。
有難い事です。


それと、この記事の特徴は、
頂いたコメントも多く、しかも皆さまの熱量が熱くて長文に尚之助さまへの愛が溢れていること

 

 

yahoo!ブログの移行ツールでは、コメントは
移行できず、ヤフブロのサービスが終了する時に、コメントも全て消去されてしまいます


愛に溢れたコメントは
また別記事にて記録に残したいと考えております。  大切なラブレター💌ですから❣️

 


https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/66393106.html

 

2013年9月2日 午後11:56. UP

咸臨丸に乗った偉人達

 

 


幕末、多くの英雄が跋扈し、歴史は大きく転換した。


しかし、活躍したのは何も人間だけでなない。

 


250年にわたる鎖国で、井の中の蛙となった日本を、
開国、明治維新、そして国際社会へと日本を導く要因となった一隻の船がある。

 


=== 咸臨丸 ===

 


正直そう大きくもない軍艦だが、まるで天から選ばれた船であるかのように、
この船に乗船して人生や運命が変わった偉人、英雄が多くいる。


不思議な縁をもつ軍艦、咸臨丸の「乗船者名簿」をここで紹介したい。

 

 

 


咸臨丸は、幕府がオランダへ注文した蒸気船2隻のうちの一隻。


安政3年(1856)オランダ国カンテルク市で製造が始まり、翌年竣工。
日本へ回航され、安政4年8月5日に長崎へ到着した軍艦である。


船体の長さは 163フィート(約47m)
幅24フィート (約7.4m)
100馬力!!
蒸気螺旋仕掛3本マストの帆の一段砲装の三等艦である。
トン数は不明だが、アメリカの新聞には250トン、もしくは292トンの記述がある。

 


数奇な運命をたどるこの軍艦は、まず、長崎海軍伝習所練習艦となった。
当時の幕臣や旗本の俊才が選抜され、伝習所生徒となり、咸臨丸に乗船して航海術を学んだのである。


生徒として学んだのは


'''勝麟太郎(海舟)'''
'''榎本武揚'''
'''松本良順'''
'''松木弘安寺島宗則)'''

 


等々・・・豪華な顔ぶれである!


ちなみに長崎海軍伝習所の総監理は、'''永井 尚志'''。
新選組!』で佐藤B作さんが演じられていた「永井さん」(香取近藤口調)も
乗船者名簿の一人であったのだ。

 


そしてこの長崎海軍伝習所時代、咸臨丸には'''薩摩藩主 島津斉彬公'''も乗船したことがある


幕末きっての「開明派」、蘭癖とも揶揄された斉彬公は、
これからの日本には海軍の養成が不可欠と、長崎伝習所へは諸藩にあっては最も多い16人の藩士
入所させている。


安政5年3月15日と5月13日の2度にわたり、
斉彬公は長崎伝習所の生徒達とポンペ教授等を招待し、咸臨丸で彼らは鹿児島を訪問したのである


斉彬公は、咸臨丸の艦内を視察し、食堂で洋風の食事を楽しみ、ポンペ教授達、外国人に
雨のような質問を降り注いだという。


しかしポンペ達は、斉彬公が海外の書物からの知識で、蒸気機関の仕組みを完全に理解し
鹿児島の工場で蒸気機関車の試作品を作ろうとしていたことに驚愕し、


「日本を変えるのは薩摩藩だ」と語り合ったという。


咸臨丸の総督であった勝海舟もこのとき島津斉彬公と親密になった。
海舟と薩摩のつながりは、実はこのときから始まっていたのである。

 


 
安政6年(1859年)、咸臨丸に大きな運命の転機が訪れる。


この年、日米修好通商条約の批准書を交換するため、幕府はアメリカ軍艦ポーハタン号にて
遣米使節団をサンフランシスコへ送ることになった。


しかし太平洋横断という大航海である。悪天候など不慮の事故も想定された。


そのため、もう一隻、随行船を派遣することになり、咸臨丸に白羽の矢が立ったのであった。


実は、ポーハタン号の随行船は別の軍艦「観光丸」が決まっていた。
しかし出港直前に、同船者の'''ジョン・エム・ブルック大尉'''が観光丸の船体を点検し、
観光丸では太平洋横断は難しいと判断され、代船として「咸臨丸」が急遽決定されたのだ。


「観光丸」は「咸臨丸」より一回り大きい大型蒸気船であったが、船齢は10年もたち
機関に重大な欠陥が見つかったのである。


まさに「天運の船」といえる。


軍艦奉行 : '''木村善毅摂津守'''
艦長   : いわずと知れた '''勝麟太郎'''


乗組員には


教授方: 佐々倉桐太郎 (運転)
 〃 : 鈴藤勇次郎  (運転)
 〃 : 浜口与右衛門 (運転)
 〃 : 小野友五郎  (測量)
 〃 : 松岡磐吉   (測量)
 〃 : 伴鉄太郎   (測量)
 〃 : 肥田浜五郎  (蒸気)
 〃 : 山本金次郎  (蒸気)


 
そして


通弁主務(通訳): '''中浜万次郎(ジョン万次郎)''' 。
木村摂津守従者として26歳の'''福沢諭吉'''も乗船していた。


その他、水夫、大工、水焚き(料理人)、医者等 日本人96人。
そして先述の、ブルック大尉達、アメリカ人船員11人が乗船し、


万延元年(1860)1月15日、咸臨丸は横浜を出港した。

 


横浜を出港した当初は、勝艦長が自ら舵輪を操縦し、その腕前を披露していた。
事実、出港前、勝艦長と士官達は、「日本人だけで太平洋を横断する!」と意気軒昂であった。


が、しかし、翌日黒潮に乗り暴風雨に遭遇すると、勝艦長は、木村摂津守とともに
船酔いのため自室から出れない状況となった。


2日目はジョン万次郎を除く日本人すべてが船酔いで倒れてしまった。


そのためサンフランシスコまでの航海は、その操縦等はブルック大尉とアメリカ人船員と
そして、自身捕鯨船で7つの海を航海した経験のある、中浜万次郎の助力がなければ
勤まらない状況であったという。


特に、艦長である勝麟太郎は、木村摂津守も手を焼いたようだ。

 


勝海舟の船酔い」は実はかなり有名な話であった。
陸上では大風呂敷で豪快に見せて、実は船上では弱ってしまい、
弱っているだけならまだしも、艦長の権威を嵩に乗務員に八つ当たりをするものだから、
船内での人望はさっぱりだったようだ。


太平洋のど真ん中で「おれはもう帰るから小船をおろしてくれ」と水夫に命じたとか
そのワガママ話が多く残されている。


木村摂津守従者として同行した福沢諭吉は、そんな勝艦長とそりが合わず、
のちに自伝でも、咸臨丸での勝海舟のていたらくぶりを書き留めていた。

 


そんな内部事情があったにせよ、天運の船である。
大しけに巻き込まれてあわや転覆か?!という危機も乗り越えて、37日間の航行の後


万延元年(1860)2月26日、咸臨丸はサンフランシスコに無事入港した。


サンフランシスコでは、日本からの日米修好使節団を熱烈歓迎し、
毎日のように祝賀会が催され、日本からきたサムライは、アメリカの近代国家や文化に接し、
驚愕し、そして酔わされた・・・・


海上ではただの船酔い艦長であった勝が、陸に上がったとたん、本来の姿を取り戻し
積極的にサンフランシスコの要人や新聞記者達と交友したのである。
さすが!勝安房守である。大風呂敷なところはアメリカ人好みでもあったかもしれない。

 


一方、軍艦奉行の木村摂津守は、若干30歳でありながらも、
終始、幕府代表としての武家の威厳を備えており、アメリカ要人からは尊敬の念を持たれたという。


事実木村摂津守は、咸臨丸に先祖伝来の財宝をすべて船に積み、
そして結局その殆どを使い果たした。


日本海軍の未来のため、日本軍艦による太平洋航海は是非とも成功させねばならないとの想いであった。


そしてアメリカ側も、木村摂津守の立派な人格もあり
使節団がアメリカに滞在する期間にかっかった経費はすべてアメリカ持ちであった。


祝賀会や表敬訪問など、所定の行事を終えた使節団は、
サンフランシスコで修繕作業をしていた咸臨丸の工事完了を待つのみである。


万延元年(1860)閏3月19日、咸臨丸はサンフランシスコを出港し帰国の途についた。


途中ハワイへ寄航し、


万延元年(1860)5月7日、品川港へ無事到着。


翌日、木村摂津守と勝麟太郎は、さっそく江戸城へ登り、
将軍家茂に拝謁、航海の次第を言上した。


青年将軍の家茂は、アメリカの事情を詳しく聞き、また摂津守が献上した、
鉱石見本や、洋画などのお土産をとても喜んだ。


(もしかしたら、大河ドラマのように天障院も拝謁したかも・・?)


ちなみに、日米修好使節本団を乗せたポーハタン号も、咸臨丸に13日遅れて
サンフランシスコに入港。
そしてパナマ運河を越えて、ニューヨーク、ワシントンも視察してのち、ナイアガラ号に乗り換えて
文久元年(1861)9月26日、無事品川へ帰国していた。


ポーハタン号使節団のメンバーは


正史  外国奉行 新見正興
副史  外国奉行 村垣範正
目付  '''小栗忠順'''  

 


後年、勝海舟のライバルとなった小栗忠順が、同時期アメリカへ派遣されていたというのは
興味深いことである。

 


さて、アメリカの新しい風を乗せて意気揚々と帰国した咸臨丸だが、
この後に起こる幕末の嵐に遭遇し、また寄る年波にも勝てず、その役割を終えることとなる。


1862年 小笠原諸島巡視、父島と母島探検。
    艦長は小野友五郎、中浜万次郎も通詞として乗船 


1866年 酷使のため故障頻発していた蒸気機関を撤去。帆船となる。


1868年 戊辰戦争勃発
    榎本艦隊と共に江戸を脱出するも暴風雨にあい清水港へ修理のため入港。
    しかし、修理が遅れたため新政府軍艦隊と戦闘となり、敗北。
    乗組員の多くは戦死または捕虜となる。 

 

 


このとき清水港の浜辺に逆賊として放置された乗組員の遺体を、清水次郎長清水市築地町に埋葬。
当時、静岡藩参時であったと山岡鉄太郎(鉄舟)が、次郎長親分の狭義に感激。
いまでも鉄舟が揮毫した墓が残っている。 


そしてその最期は・・・
 
1871年 明治3年 9月19日


片倉氏の旧臣401名を移住させる目的で北海道小樽へ向け出航したが、輸送途中、
北海道木古内町泉沢沖で暴風雨により遭難し、サラキ岬で破船、沈没する。 


未だその沈没場所は不明であるが、北海道木古内では、咸臨丸を製造したオランダとの交流を通じ
毎年、きこないチューリップ祭りが開催されている。

 


幕末、咸臨丸に乗船したその多くは幕府側の人間であった。
将来を嘱望された旗本の子弟や青年の多くが戊辰戦争でその若い命を落としている。

 

 


しかし、咸臨丸が日本の軍艦として初めて太平洋を横断し、アメリカへ渡航した意味は大きい。
日本人も欧米並みの海軍を操れるかもしれないという希望が芽生えた。
それ以降、幕府だけでなく諸藩はこぞって、近代化へと取り組みを始めたのである。

 


【エピローグ】


咸臨丸がアメリカから帰国して10年後。


岩倉具視を正使とし、政府のトップや留学生を含む総勢107名が、明治4年11月12日(1871年
アメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された。
いわゆる『岩倉使節団』である。
咸臨丸の故郷オランダを含め、訪問した国は12カ国に上る。


10年前には「攘夷」を叫んでいた志士達は、断髪・洋装で乗船し、
列強の文化と軍事力を目の当たりにして「富国強兵」「文明開化」への強行な政策転換を断行。


その姿は、日米修好使節団として渡米した幕臣たちの姿と二重写しとなる。

 


幕臣尊皇攘夷の志士達も、日本の未来を憂う気持ちは、
同等に評価されてしかるべであろう。

 


咸臨丸の『咸臨』とは君臣が互いに親しみ合うことを意味するそうだ。(易経より)


写真:「咸臨丸難航図」(横浜開港資料館保存)

 


********+********+*********+*********


これも2008年の記事です。
こちらも11年間訪問者が絶えず
アクセス解析のTOP10には入っている
人気の記事です。


大河ドラマ 篤姫 の影響で書いた記事は
息が長く愛されており
有難いと思ってます。


大河ドラマで、幕末が舞台になると、
アクセスが増えるのも特徴です。


昨年の大河 『西郷どん』放映中も
その恩恵に預かりました

 


https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/58353259.html

 


2008年10月3日 午前0:26 Up

孫子「囲師必闕」 九変篇第八-1

軍師官兵衛 第13回・・。

久しぶりに 「孫子きた~~~~! 」 。

 

ということで早速解説をしたいと思います。

 

今回のお題は 「囲師必闕(いしひっけつ)」

 

官兵衛が「福原城攻め」で用いた戦法として有名だ。

敵を追い詰めても四方をすべて包囲するのではなく、必ず逃げ道をつくれというもの。

 

早速、原文を紹介したい。

 

【原文】

 

孫子曰、凡用兵之法、高陵忽向、背丘忽逆、絶地忽留、

佯北忽從、鋭卒忽攻、餌兵忽食、帰師忽遏、圍師必闕

窮寇忽迫、此用兵之也

 

【和訳】

 

孫子曰わく、凡そ用兵の法は、高陵には向かうことなかれ、

背丘には逆らうことなかれ、絶地には留まることなかれ、

佯北には従うことなかれ、鋭卒には攻むることなかれ、

餌兵には食らうことなかれ、帰師には遏(とどむる)ことなかれ

囲師には必ず闕き、窮寇には迫ることなかれ。

此れ用兵の法なり。

 

 

【解説】

孫子はいう、およそ戦争の原則としては、高い陵にいる敵を攻めてはならず、

丘を背にして攻めてくる敵は迎え撃ってはならず、

険しい地勢にいる敵には長く対してはならず、

偽りの誘いの退却は追いかけてはならず、

鋭い気勢の敵兵には攻めかけてはならず、

こちらを釣りにくる餌の兵士には食いついてはならず、

母国に帰る敵軍はひき止めてはならず、

包囲した敵軍には必ず逃げ道を開けておき、進退きわまった敵をあまり追い詰めてはいけない。

 

以上、常法とは違ったこの九通りの処置をとることが、戦争の原則である。

 

 

つまり、孫子の用法においての 「圍師必闕」は、

進退窮まった敵を救う方法であったのだ。

 

敵味方問わず、人の命の尊厳を大切にした官兵衛であったなら、

孫子の教えに習い、勝利のために敵将は討ち取っても、

その他兵士への温情のため、一箇所包囲網を開けていた可能性はあると思う。

 

「帰師には遏(とどむる)ことなかれ」 (母国に帰る敵軍はひき止めてはならず)など、

思わず、涙腺が緩んでしまう。

 

孫子の用法は、人間の尊厳をも忘れない。

思想書の香りもするから、好きだ。

 

参照 「孫子」 (岩波文庫) 金谷治先生訳注

 
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2014年 岡田准一君主演の大河ドラマ
軍師官兵衛』  


ドラマの中で、官兵衛が孫子を引用する場面に興奮し その度に喜んで書いた、『孫子シリーズ』です


軍師官兵衛にもはまり、
毎回熱く感想を投稿していたのですが、
メインの感想記事よりも、何故か訪問者様も多く、2019年の今でもアクセス解析の常連という、謎のシリーズ です。


藍より青い❗️


https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/66960033.html

 

 

2014年4月4日午後11:00 Up

 

蛇の女房 〜 細川ガラシャ

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明智光秀の娘で、戦国時代、絶世の美女といわれた明智玉子。
むしろ洗礼名の「細川ガラシャ」が有名であろう。


美貌でありながらも大謀反人・明智光秀の娘という十字架を背負い、
それでも最期まで誇りを失わずに命を絶った悲劇の女性。


明智光秀細川藤孝(幽斎)が入魂の仲であったため、藤孝の嫡男・忠興の正妻となる。
新婚当初は仲睦まじい夫婦であったが、いつしか


'''「鬼の亭主に蛇の女房」'''と呼ばれるようになった。

 

 


忠興は秀吉傘下の武将の仲でも武闘派の筆頭格で、激烈な性格で有名であった。
そのため「鬼」と呼ばれてもおかしくはない。


しかし、何故、敬虔なキリスト教徒でもあったガラシャが「蛇」なのだろうか?

 


それはこんな逸話が原因とされる。


時は、秀吉による伴天連追放令(1587年)以降の大阪細川屋敷。


忠興とガラシャが食事中、夫婦喧嘩となった。
そのとき、瓦職人が屋根から転がり落ちた。


忠興は「無礼者!」と即座にこの瓦職人を切り捨て首をおとし
なんと、ガラシャの御膳の上にその生首を乗せたという。


ところがガラシャは顔色一つ変えず、箸さえもとめずに食事を続けたという。


その様子を見た忠興が
「蛇のような女(おなご)じゃな」とあきれたところ


ガラシャ
「鬼の女房には蛇がふさわしゅうございます」と冷たく答えたそうだ。

 


この話が広まって「鬼の亭主に蛇の女房」という強烈なレッテルがつけられたのだという。

 


生首の載った食卓は流石に映像にふさわしくないので、時代劇や歴史ドラマでは
演じられたことはない(はず)だが、ガラシャと忠興はこのようなすさまじい夫婦関係であったのだ。

 

 


ただし、この逸話を深読みすれば、当時の状況が推測される。

 


忠興とガラシャがもめていたのはもちろんガラシャの信仰についてであろう。

 


忠興は美貌の妻を激しく愛しており、他の男の目につくのさえ嫌がり、無断で口を聞いた家臣を
問答無用に切り捨てたという。
少々、異常性格であったようだ。
そのためガラシャは一歩外出もできず、隔離された部屋で監禁状態であった。

 


さらにこの当時すでに秀吉のバテレン禁止令が出ており、したがわない大名には
厳しい制裁が下されていたことも、この監禁を長引かせる結果となった。


ガラシャが信仰を捨てないとなれば、離縁どころかお家断絶の危ない状況であったのだ。

 


また、忠興の深層心理を探れば、激愛する妻が宗教上の神とはいえ、
他の男性(キリスト=ゼウス)に心が奪われているのは我慢ならなかったのではないか?

 


しかしガラシャにとって信仰を捨てることは、生きることをやめることであったのだ。

 


更に深読みすれば、喧嘩のとき屋根に潜んでいた瓦職人は「間者」であった可能性は高い。
石田三成あたりの差し金であろう。


もし間者にガラシャとの口論の内容を聞かれ、ガラシャキリスト教徒であることが
公になることは、絶対に避けなければならない。

 


忠興が瓦職人を問答無用・一刀両断に切り捨てたのは、こういう理由があったからだ。
そしてその生首をガラシャにこれ見よがしに見せ付けたのは


「信仰を捨てない限りお前もこうなる」そういう威嚇の意味もあったろう。

 

 


監禁、暴力、威嚇・・・現代でいえば、DV ドメスティックバイオレンスといえる夫婦間である。

 


しかし、いやこんなDV夫だからこそ、ガラシャは信仰に頼ったのである。
当時、女性からの離縁など、不可能であったからだ。

 


ガラシャが顔色一つ変えなかったのは、そんな脅しには屈しないという
彼女の精一杯の抵抗であったと思う。

 


忠興は、しかしそんな妻を、最期まで他の男の目には触れさせなかったのである。

 


ガラシャの最期・・・

 


1600年 関が原直前の7月17日。
徳川家康側についた忠興の出陣中、大坂玉造の細川屋敷は石田三成の軍に囲まれていた。


この状況を見越していた忠興は人質になるくらいなら自殺せよとガラシャに命じていた。


しかし、キリスト教で自殺は禁止されている。大罪であるのだ。
キリストの教えに旬じるため、ガラシャは家臣小笠原秀清に命じ、
襖の外から槍で自分の胸を突かせた。


そしては小笠原秀清は屋敷に火をつけ自分も自害。
ガラシャの遺骸すら三成へ引き渡すのを拒んだのである。

 


壮絶な殉死といえよう。

 


蛇の女房といわれたガラシャ
忠興よりも激しい内面をもった、純粋で真っ直ぐな女性であったのだ。

 


明智玉子(細川ガラシャ
永禄6年(1563年) - 慶長5年(1600年)7月17日
37歳の波乱に満ちた人生であった。

 


写真:大阪カテドラル聖マリア大聖堂玉造教会(旧細川屋敷に隣接している)

 


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戦国時代に関する記事の中でも
長く読まれている記事の一つです。


来年の大河ドラマ明智光秀にちなんだ
選択でもあります。


麒麟が来る』楽しみでしかない

 


https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/57010129.html

2008年6月27日午前0:29 up

 

 

『思無邪』島津斉彬と久光

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「思無邪」島津斉彬筆 

 


斉彬の座右の銘として有名な言葉である。


「思無邪」とは「思いよこしまなし」と読み、
心情をありのままに表し、偽り飾ることがない、という意味である。
論語詩経に見られる言葉だそうだ。


2001年韓国を訪問した小泉純一郎首相(当時)が、国立墓地と、西大門独立公園の歴史展示館を訪問。
記帳の際、「思無邪」と書いたことで、一躍有名になった言葉でもある。

 


外圧に揺れる国難に真正面から向き合おうとした斉彬公の心境を表している。


今年4月に大阪歴史博物館で開催された「天璋院篤姫展」で、直筆の書を拝見できたのは感激であった。
実物はかなり大きな書で、斉彬公の強い決意を感じさせ、観るものを圧倒する。

 


また書体も伸びやかで力強く、また構図もすばらしい名書ではないか!

 


私は、博物館などで、歴史上の有名無名な人物の書や絵画を見るのが、この上なく好きである。


'''時に絵や直筆の手紙や文字が、その人のすべてを物語るときがあるからだ'''

 


この「天璋院篤姫展」では、数多の島津斉彬公直筆の手紙を拝見することができた。


斉彬公はかなりの筆まめであったようだ。
そしてその内容も、まさに「「思無邪」そのもの。

 


邪推も邪念も無く、陰謀や隠し事もなく、真っ正直でストレートに考えを書いていた。
そしてその内容の殆どが、外圧や国難を憂い、そのために薩摩はどうすべきかを
明確に書き示している。

 


数多い斉彬公の書状のなかで特に感激したのが、

 


'''「島津久光宛 島津斉彬書状」''' 嘉永4年(1851) 5月29日付

 

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江戸の斉彬公から国許の島津忠教(のちの久光)への書状である。
上京した篤姫が、江戸薩摩藩邸にて篤姫の将軍家の輿入れの沙汰が下るのを待っていた間に
にしたためられた手紙である。


内容を抜粋してみよう。

 


『異船之様子函館下田共・・・最早交易も開ケ候哉聞得申候、先両三年戦争之掛念は有間敷
異人益我侭之振舞可有之掛念計候、琉球も是迄日本服従内々候得共、此節之場合 夫相済間敷との事・・』

 


ペリー再来に揺れる日本は戦争を避けるために開国は必至との見解を述べている


嘉永4年当時、そこまで踏み込んでの発言は大胆でかつ的確である。
さすが、斉彬公。先見の明がある。


また、このような重大な内容を書状で書き送る久光への信頼の厚さをも物語っていて興味深い。

 


また篤姫の将軍家との婚姻について幕府からの正式な沙汰がないのは、
ペリーからの外圧や、京都御所炎上の問題で幕府ががたがたしているためだと説明している。

 

 


{{{:
三次郎母子案しん可申と存候間、内密御伝可給候、何分善悪相知兼申候}}}

 


同年2月に当主忠剛(篤姫の実父)を亡くしたばかりの今和泉家の母子に、
内密にこの件を知らせて安心させてほしいと依頼している。

 


篤姫やその家族への気遣いがあふれる書面であり、またこの兄弟が何でも相談できる間柄であったことが分かる書状でもある。

 

 


{{{:
一人下田之様子七里方勝手歩行いたし、品物も自由取替も有之よし、
此間、内々人遣候処、誰金銀と取替出来候見届ケ罷帰申候、其通故、琉地は猶更之事と存申候、
武備何分御手薄之様子御座候、委細は後日可申入候、恐々諌言 }}}


と、下田へ自ら赴き視察した内容を日記風に気軽にしたため、
久光へ琉球への武備の目配りをさりげなく依頼しているのも面白い。

 

 


久光への親しみと信頼あふれる書状は、この兄弟の関係が良好であったことを示す証拠であろう。


遠く江戸にて篤姫輿入れ等の幕府工作に忙殺される斉彬公にとって
薩摩藩、特に島津家の諸事の手助けとなる参謀的な役割を久光が負っていたとも想像できる。


つまり島津藩を2分し血で染めた「お由羅騒動」が、その後の二人の関係には殆ど影響がなく
弟の罪を問うどころか、むしろ重用していたところに、斉彬公の大きな器ぶりが分かる。


安政5年7月、島津斉彬は志半ばに病で倒れ(毒殺の疑いもある)
急死する間際に自分の後継者として、島津久光の嫡子、茂久を指名した。

 


お由羅騒動」の影響がまだ残っている藩内で久光を後継者に指名するのは憚りがあったのであろう。


そして幼い茂久には後見が必要であり、自分の意思や志を一番理解してくれる身内として
久光に薩摩藩の舵取りを託したのである。

 


翌年(安政6年)実父島津斉興が亡くなった後、「国父」として藩の実権を掌握した久光は、
兄斉彬公の意思を継ぎ、文久2年(1862年)、公武合体運動推進のため兵を率いて上京する。
朝廷・幕府・雄藩を連合させ、外様であっても幕政の主導権を握ることこそが、
斉彬公の悲願であったからだ。

 


そして薩摩藩内においても斉彬公同様、下級武士をどんどん登用した。
その筆頭が大久保一蔵(のちの利通)。
彼ら中下級藩士から成る有志グループ「精忠組」は若手藩士の中心となった。
そしてそのまとめ役が、後に家老となる小松帯刀である。


{{{
しかし、「精忠組」のリーダーであった西郷吉之助(隆盛)と久光は、そりが合わず、
最期まで犬猿の仲であったのが、明治維新になっても尾を引く結果となる。}}}

 


島津久光は斉彬の後継者として、見事に斉彬の意思を継いだ。


それは間違いない。


しかし、西郷との個人的な人間関係のトラブルが、久光の印象を暗くしているような気がする。


西郷隆盛=ヒーロー、久光=ヒール とでもいおうか・・・

 


事実西郷は藩命で2度も島流しとなる。


一度目は安政の大獄で京都を追われた月照との心中事件の後、
幕府からの詮索を逃れるための隠れ蓑的処置であったが、
(そのため西郷は亡くなったことになっており、菊池源吾という偽名で奄美大島へ流された)
2度目の沖永良部島遠島は完璧な罪人扱いであった。
当時の藩士にとって最も過酷な左遷であり、事実西郷は過酷な環境にあって死に掛けたのである。


明治維新最大の英傑を島流しに処し、抹殺しようとしたわけだ。
久光の評価が斉彬公のそれに遠く及ばない、暗く邪悪な印象を与えるのは、致し方あるまい。

 


それは久光の西郷への憎しみという'''「思有邪」'''が、政治に影響したからである。

 


その一方、斉彬公は、政治や人材登用をできるだけ公正に行い、
また一時敵対した異母弟とはいえ、罪を問わず弟への信頼をも揺るがすことも微塵もなかった。


まさに'''「思無邪」'''。

 


「三百諸侯並ぶものなし」と称えられ、あの西郷隆盛が死ぬまで尊敬し続けた
海のように大きな器をもった殿様であったのだ。


大河ドラマ篤姫」で高橋秀英樹さん演じる斉彬は、心広く、慈悲深く、また
日本の国難を憂い、幕政に参加してこの難局を乗り切りたいという、まっすぐな野望を持っていた。


とても実像に近いのではないか?


斉彬公筆の「思無邪」をみての実感である。

 


一方、久光に関しては今年の大河ドラマ篤姫」でも、斉彬公との関係も良好に演出されており
なかなかいい感じである。性格もいい。
これから、西郷との複雑な人間関係をどう描くのか、それも注目してみたいところである。

 

 

 


===== 島津斉彬 =====


文化6年~安政5年(1809-1858) 享年50歳
27代島津斉興の嫡男。母は斉興の正室鳥取藩主池田治道の娘・弥姫。
蘭癖と呼ばれた曽祖父島津重豪の影響を強く受けて育ち、海外の情報、文化に精通した
英邁で当代きっての進歩的な考えをもった人物であった。
実父斉興と側室お由羅の生んだ異母弟 島津忠教(のちの久光)と
島津77万石の跡目をめぐる内紛、いわゆる「お由羅騒動」を経て、嘉永4年(1851)藩主に就任する。

 


お由羅騒動」については⇒  
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/54366882.htmlお由羅騒動島津斉興vs斉彬公との確執 』
参照下さい。


写真@「天璋院篤姫展」カタログ


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大人気だった大河ドラマ天璋院篤姫』とコラボした『天璋院篤姫展』へ行った感想記です。


もう11年も前なんですね。


篤姫が嫁いだ堺雅人さん演じる将軍家定が
大好き💕で、家定の書画を目当てに行ったのですが、島津斉彬の迫力ある書や手紙に感銘を受け
時間を忘れて見入っていた事を思い出します。


大河ドラマで幕末が舞台になると
途端にアクセスが増え、
昨年の大河"西郷どん"の影響もあり
今でもほぼ毎日アクセスを集める
息の長〜い人気記事です。


集計すれば、多分TOP5にはランクインすると思います   11年間愛された幸せな記事です

 

 


https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/57502811.html

 

2008年7月31日午後10:51 Up